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2014.09.19

二流と一流の違い、中級者と上級者の違い、専門家と創造者の違い

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「サッカーしか知らない者はサッカーすら知らない人間になるだろう」サッカー好きならその名を知らぬ者はいないだろう、イングランド、プレミアリーグの強豪「チェルシー」の名監督ジョゼ・モウリーニョ氏の言葉である。正確にいえばモウリーニョが監督業に進むと決めた若い時分、ある哲学者からさずかった言葉だそうだ。

スポーツであれ芸術であれ、誰でも努力を重ねれば「初心者」という段階から「中級者」と呼ばれる技能水準にたどり着く。そしてずば抜けてはいないにせよ、それなりに自らの技能を楽しみささやかな誇りも持てるだろう。ゴルフで100を切るようになる、サッカーでボールさばきが自由にできる、など。筆者はジャズ演奏が好きだが、よく知られたスタンダード曲を楽しく自分らしく弾きこなす、ということだろうか。
多くの者はその「中級者」水準にとどまる。難しいのはそこからである。
努力の量がものを言うか?プロ、専門家としてのマニアな知識をもっと増やすべきか?勿論、それもあるがそれだけではない。
プロの道にすすみ、更に「一流」として活躍できる者には、今までと同じ、他人(競争相手、過去の芸術創作者)にはない何らかの「特別な違い」が備わっている。

どの世界に進んでも、突き抜けた結果を出し続けるには、大変な努力が伴う。他人が敷いた道の上ではなく、先人が歩かなかった道を切り開かずして望んだ成果は得られない。そのためには、過去の延長線上の努力ではない、その分野固有の専門的な知識や経験というデータベース検索と、固定的な知識の組み合わせの発想だけでは解決できない、様々な事態を乗り越えなければならない。つまり、創造的に様々な挑戦に臨むことになる。だが、多くの者は専門の知識経験依存から脱することができず、停滞、挫折する。

この高い壁を乗り越えるには、日頃から雑多な様々なことにも関心を払い、常に何か新しいことに関心を払い学び取る、新しい考察を行う、という感度と学習力がものを言う。そのことを体験的に、或いは直感的に理解した各界の「一流人」たちは、様々な世界の人との交流をはかり、様々な専門外の勉強も地道に行っている。結果的に雑学も豊富で教養豊かになる。

異分野の体験や知識を自分の分野に活かす方法は、4つの創造的思考のアプローチそれぞれに含まれている。
「抽象化思考」は、異なる分野であっても、経験や物事の本質的な意味を汲み取り、それを自分の世界に応用してみる頭の使い方である。
「複眼力」で異分野の立場から自身の専門分野を眺めて観察してみる、異なる常識から自分たちの常識を疑ってみることができる。
異なる分野での体験が豊富なほど、人と違った知識や体験が豊富なほど「連想力」で他人とは異なる連想を行える、他人が思いつきようがない何かを思い浮かべることができる。
「構想力」で、異なる分野を組み合わせる、融合させる、物事を解決に至るまでの発想につながる。場当たり的で安直なコインの裏返し的な、「理屈は正しいが凡庸で且つ実現性が乏しい作戦」ではなく、一見遠回りで無駄なようにもみえる様々なバイパスを経て、確実に結果に辿り着ける作戦を考える材料が豊富になる。

物事を極めるほど、挑戦の難易度が上がるほど、与えられる状況はユニークになる。従ってユニークな発想力は欠かせない。
限られた時間のなかで、誰もが異なる世界で沢山の経験を積む、勉強ができるというものではない。時間の絶対量は限られている。だからこそ、わずかな経験を最大限に活かすための創造的な頭の使い方がものをいうのだ。


  • 一流の靴磨きなら、靴と磨き方だけに通じているのではない。皮の特性は勿論、一流の工芸品とは何か、他人の生き方や人生観、そうしたものにも関心を払っている。人の生き方は靴のはき方にも表れるし、磨いた後の目指す姿は工芸品のようでなければならない。そのためには一流の芸術に触れ、文学作品を読む。
  • 海外に移籍して活躍する日本人サッカー選手をみれば、みなサッカー以外の何かについても秀でている。それは語学力やコミュニケーション能力であったり、哲学性や文章力であったり、ファションでもあったりする。そしてそれまでのキャリアも決してエリート街道まっしぐらではなく、紆余曲折や不遇の時期も乗り越えている。
  • サッカー界では名監督も同様だ。オシム監督は優れた数学者であった。岡田監督はプロジェクトマネジャーとして一流であった。佐々木監督も卓越した企業広報のコミュニケーターである。
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