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2014.09.17

起業家と経営者の違い

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ここしばらく「新規事業推進」部門の創設が各企業様で相ついでいる。
その中身も、リーマンショック以前であれば、既存技術を活かした新市場、あるいは既存顧客にむけた新製品・新サービスのいずれかを志向するのが主流であったが、最近は新技術で新市場を、というバブル期を彷彿させるものも多い。

どの市場も成熟期でこれ以上の成長を見込めない、しかし長年新たな成長カーブをゼロから作ったことはなかった、なんとかしなければならない、ということだろう。

言い換えれば、会社のブランドと資本を使って、新しい事業を起業しましょう、という意味である。

ゼロから1をつくる、ということである。
そこで求められる人材は当然「起業家的センスを持った人」ということになるのだが、さて組織の中からそのような適任者を見出すのは難しい。何しろ組織内に起業家がいないのだから。もしいたら既に退社して起業しているだろう。

よく誤解されることだが、経営者と起業家は求められる要件は決して同一ではない。共通する要素もあるが、異なる要件のほうが多いかもしれない。
何しろ与えられた前提が真逆なのだから。
(一定規模までの中堅企業においては一人が両方の役割を担わざるを得ない、ということはある)

たとえば、経営者とは既にある経営資源の配分を現在、そして未来にあわせて最適配分するのが仕事である。
これに対して起業家は、経営資源を配分しようにも持っていない。経営資源は自らつくることになる。企業内起業家でも、他部門に対してリソース(人的資源、技術的資源)を貸してくれと頼んでも、海のものとも山のものとも分からない企画に反応は及び腰、あるいは冷ややかだろう。
経営資源をつくることは大変である。最適な人を探そうにも優秀な人が協力してくれるとも限らない。むしろそうではない「いわくつき」の人が寄ってくることが多いのは、本当の起業でも企業内起業でも同じである。
結果として、一石三鳥四鳥の経営資源が必要になる。人材であればマルチタスクの人間であり、技術や設備についてもいかに限られたものを上手いこと使い回し多様な効果を得るか、が成功の鍵になる。

経営者は既にある事業をいかにして守るか、守りを万全にした上で、地道に攻めることになる。経営者がややもすると保守的なのは必然である。次から次へと腰が軽くあちこちの話に飛びついているようでは、社員からも軽くみられるか不安を与えることにもなるだろう。慎重にどっしり構えることは大事である。そして何より自分が動くのではなく、いかに社員の心に火をつけ動いてもらうか、その気にさせるか。社員の顔色だけ眺めるだけで過ごすマネジメントができればこれほどありがたいことはない。業績が安定している会社の経営者は得てして有名ではない。社長が有名になるのは業績が悪くなった時だろう。

一方、起業家はといえば、「攻め」が中心である。守るべき失うものはない。頭でっかちに評論家的に構えている場合ではない。自ら率先してあちこちに出向いていく。良い話だけでなはなく悪い話もいくらで潜んでいるなか、リスクをとらなければならない(勿論危なければ真っ先に逃げる逃げ足の速さもいる)。
そうした面倒な仕事一切は、人任せにはできない。自らが先導を切って、数少ない社員に見本を示さなければならない。

経営者は必ずしもアイディアマンである必要もないだろう。むしろ沢山のアイディアマンの社員を抱え、状況と各自の能力の最適な組み合わせを考えることが仕事である。

起業家は自らがアイディアマンでなければならない。頼れるのは自分である。頭は誰も貸してくれない。

決して経営者が楽で起業家が大変、と言いたいのではない。異なる仕事である、というだけだ。異なる仕事には異なる困難が伴う。 失敗が通常の起業家であれば、人のクビを切ることのストレスは少ない。経営者が誰かのクビを切るというのは、これまでの功労者を辞めさせることである。本人に絶対的な罪でもあるならまだ良いが、多くは業績の低下が発端であり、社長の責任で社員の責任ではない。そのストレスは起業家には分からない。

さて難しいのは誰が起業家か、それを見極めることだろう。
様々な要件があるなかで、あえて挙げれば、卒のない人材よりは、夢中になれる集中力があり、規範にとらわれないが責任感は強い、タイプだろうか。

ただ、起業家なら起業家を見抜けるが、そうでなければ見抜けないのが常である。
従って、見抜けない、少なくとも自分たち経営陣には、という客観的な自己認識と割り切りがなくして始まらない。
外部人材に、実際に起業家に、見出してもらう、あるいは各種の気質調査を活用することも重要だ。客観的なリサーチ質問も揃っている。

なお、潜在的起業家は、皆が思っているよりが多いだろう。ありがちな「有能な社員」像とは異なっているだけである。
その立場にたってみると意外に自分はそれが性分に合っていた、ということもあるし、何らかのきっかけで自らが何かリーダーシップをとって情熱を注げる何かに出会えた、と目覚める場合もある。一方でいつかは自分も起業を、といいながらいつになっても行動に移せない、実はあまり向いてもいない、という人も時折みられる。

最適な人材を発掘したら、なるべく早く既存の事業とは隔離した場に、外野の影響を受けない環境におくことだ。
子会社経営を若いうちから任せる、という経営者の帝王学教育のルートはあるだろうが、それと同様に起業家の帝王学を学べる場も一方では必要である。指示も出さず、助けも出さず、自分の頭で考えてもらう、という機会はできるだけ若い時に与えたほうが良いかもしれない。たとえ失敗してもそれは大きな学びになり、普通のキャリアパスに途中から実質中途入社のような形で入っても、いずれまたその才能を活かすべき状況は巡ってくるかもしれないのだから。

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